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「ただいまー。」
約半日ぶりか。無機質な暗闇にやっと宿った生きた声なはずなのに、より一層この空間を寂しくしていく。
「明かりをつけて。」スマートスピーカーに話しかけると、
「はい。」の声とともに明かりが部屋を照らし、いやらしいほどの温かみを映してくれる。
とびきりの明るさで返ってきた声は、確かにこちらの呼びかけに応えてくれていたが、そこに人は感じられない。

引っ越してすぐに買った、木でできたおしゃれな皿に鍵を投げ入れる。
慣れたものだ。居心地良さそうに鍵は定位置に収まり、この家の主が誰かを物語っていた。

”ピザ屋のチラシ”、”水道修理のマグネット”、”不動産の案内”、その他の封筒とともにポストから取り出した手紙一式を
ソファーの上に投げおき、もうすっかり体の一部になったスーツをハンガーへとかける。
一連の流れが習慣となり、作業となり、帰宅からシャワーを浴びるまで、寸分違わぬ動きを繰り返すロボットのようだ。
「子供の頃に夢見たロボットの身体は、こんなに疲れるもんじゃなかったよ…」
入浴の準備を進めながら自然と溢れた本音には、スマートスピーカーは反応してくれない。

いつも入浴中の記憶はない。よく、「頭洗ってるときに気配感じるよね!」と言われていたが、
ここまでくると、気配の一つも感じてみたかった。

さっぱりした体に、いく分か心が洗われた気がする。
毎日汚れて帰るけど、リセットできる環境には感謝しなくちゃいけない。

ケースで購入しているビールを冷蔵庫から取り出し、ソファーに座るとテレビをつけリモコンを横に放る。
特に見たい番組があるわけじゃない。ただ人の声が聞きたいのだと思う。
冷え切った缶が口に当たる心地よい冷たさを感じながら、ビールを一気に流し込む。

   **

はっきりと覚えている。成人式の日。
律儀に20歳になるまで酒を飲まず、成人式の後友達4人で居酒屋に行ってはじめてのビールを飲んだ。
大人があんなにも美味しそうに飲むものだし、得も言えぬ黄金に輝く炭酸飲料に否応なしに期待は高まっていた。
『この飲み物が不味いわけがない。』、『”のどごし”とやらをいち早く感じてみたい。』
今思えばあの頃はおこちゃまだったが、あの当時は大人の仲間入りができたとテーブルに運ばれてくるビールをまだかまだかと待ち望んでいた。
「じゃあ成人に、カンパ〜イ!!!!」
ビールジョッキが4つ、雑にぶつかる音がして、各々がビールに口をつけた。
反応はない。
全員がお互いの反応を探りながら、ほとんど進まなかったジョッキをそっと戻した。

「思ってたのと違かったな。」

重苦しい空気が生まれる前に感想を口にしたのは智也だった。
この一言に全員がどれだけ救われたことか。つま先から鼻ぐらいまでが”見栄”でできていた3人は、少なくとも首から上には”見栄”が入っていなかった智也の本音に救われたのだ。
「そうだよな。なんでこんなの『うまいっ!』なんて言ってんだろうな。」すかさず同調した大地の一言に、残り2名が大きくうなずいていた。

   **

「ビール苦手だったな。」今日は独り言が多い。
テレビからはスタジオで映像を見る芸能人の笑い声が聞こえ、ふと目をやると最近良くテレビで見る女性タレントが大型犬に引っ張られ、散歩させられている映像が流れていた。
チャンネルを変えようとリモコンに目をやると、ポストから出したチラシが目に入る。
酔い始めてもなぜだか隣にやってくる冷静なもうひとりの自分が、「また支払期限過ぎるぞ。」と耳打ちしてくる。
仕方なく、放り投げたポストの中身の仕分けをスタートさせる。
『印刷するだけ無駄だろう』といつも感じるチラシの中に、見慣れない水色の封筒が紛れていた。
表には、
”田中 翔太 様”
の文字。さすがに見ただけでわかる。母親からの手紙だ。
普段、LINEもメールもしない人が、わざわざ手紙を寄越すことに違和感と少しの恐怖を感じながら口の隙間に小指を入れ、雑に封筒を開ける。


   ***

翔太へ

元気にしてますか?
急な手紙に驚いたかもしれないけど、安心してください。特別な用は無いです。
母さんは今までと変わらず元気にしているし、お父さんも定年に向け最前線からは外れたみたいだけど、
毎日会社には行って働いています。

あなたのことだから、『なら手紙なんて寄越すなよ。』なんて思っているのでしょうね。
手紙を受け取って読むだけで親孝行になるんだから、安いものだと思って最後までつきあってください。

翔太が東京の会社に勤めはじめて6年。私達の手から離れて6年です。
嬉しさが大きく勝っているけど、寂しさもあるのですよ。
でも、”便りがないのは元気な証拠”なので、ふたりとも心配はしていません。
離れると、当たり前にしていた3人での会話が特別なものに思えますね。
今はアイフォンを使えばテレビ電話で顔をすぐ見れるって、お隣の由美さんが教えてくれるんだけど、
いまだによく分からなくて手が出ません。
それに、お母さんがテレビ電話かけたって出てくれないでしょ?

翔太のことはお見通しなのです。

器用にこなす翔太のことだから、自分のことは自分でやれてるのでしょうね。
「孫の顔を見たい。」なんて今どきじゃないことを言うつもりも無いから、翔太のペースで今を楽しんでください。
くれぐれも、健康には気をつけて。(少しはお母さんらしいことも言わせてね。)

母より


追伸
お母さん水彩画はじめました。


   ***


便箋一枚に書かれたとりとめのない文章は、たしかに母親の字で埋め尽くされていた。
封筒にはもう一枚紙が半分に折りたたまれ入っている。例の水彩画だろう。
開くとそこには、一本の黄色いデイジーが描かれていた。


テレビからは相変わらず笑い声が聞こえ、大型犬に引っ張られていた女性タレントが田んぼに振り落とされ、顔中が泥だらけになっていた。


郵便局

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